2007年3月31日土曜日

初めてフィリピンパブ

初めてフィリピンパブに行ったのは友人Yとフィリピン人女性とのフィリピンでの結婚式から帰ってきてからです。当時は日本語が通じて身近に話せる外国人の集まるお店「身近な外国」という事で、「そこで友達になればフィリピン案内してくれるよ」等と安易な友人Yの言葉から行ってみました。安直です。この手のお店は初めてで日本のキャバクラにも足を踏み入れたことが無かった頃です。この友人に付き合ってもらい行ってみました。場所は西川口、店の名前は覚えていません。
 店に入ると「いらっしゃいませ」の掛け声から始まりました。この時まだ時間も早かったのか店には客が居無ったです。私の性格で初対面の女性とは何を話してよいのやらで話が出来ないのです。友人が「あの子可愛いじゃん」等と言われても、みんな大して差が有るようにも見えないし顔やスタイル年齢など気にならず「お~外国人(フィリピン)ばっかりだ~」。
そんな私を見かねて友人Yが「この前二人でフィリピン行ってきたよ」と話題を振ってくれ、お蔭様でそこから何処へ行ったなど話が進みました。

フィリピンの大学

私の片言の英語で会話しているのだけど、この国の大学は選考科目を聞いてみたりしていると専門学校に近いようです。例えば、銀行、パソコン、事務など。結構女性は大学を出ていて、それが花嫁道具のように思えます。英語も確か第二母国語で結構話せますが日本人英語の様にフィリピンなまりがあったりしてます。どこでもそうだと思うのですが大学は出たもののを感じて日々生活をしているようです。日本もそうだけど教育って人に使える教育何ですかねぇ。使ってくれる人を探すでしょ。日本でも外資系のデパートの掲示板に結構フィリピン人のベビーシッターやメイドなどの掲示を目にする様になって来ています。今、日本には外国人がかなり住んでいるので、外国人をターゲットにしたメイドやベビーシッターの産業が有っても良いかもしれません。

2007年3月25日日曜日

出稼ぎに行く

ファンキー(友人の兄弟)は2005年頃社長の運転手の仕事をゲットして子供と奥さんの為にと張り切って通勤でカビーテからメトロマニラまで朝早くから毎日通っていたけど、過労で倒れてしまったらしい。私から見て起点の利く、まめで人の好い人だからオーバーヒートしたようだ。倒れてしまい職を失って、アラブに出稼ぎに行くことを決めたと言っていたけど。ファンキーは以前にもアラブへ出稼ぎに行った事があると私が始めてフィリピンに来た時に行っていました。その時はアラブの金持ちと友達になったとか自慢していました。彼の日本に居る姉妹から聞いた話だとアラブの仕事は2年契約で行ったら2年帰ってこないらしい。彼女にファンキーは自分家族の様子を見て欲しいと頼んできたそうである。知っている話でもフィリピン人の出稼ぎは良く聞きますね。まとまったお金を手に入れるには出稼ぎに行くのが手っ取り早いからだそうです。

2007年3月18日日曜日

ファンキーの家

そういえばカランバでお世話になったファンキー(友人の義理の弟)が家族の敷地内に家を建てたそうで拝見してきました。以前は彼女の両親の家で彼女の部屋を二人で共有していました。友人の奥さんからすると金額の割りには貧素でボラレタ言い方をしていました。私は多分思うにファンキーは気を使う人なのできっと良い顔をして振舞ったと思います。彼の義理の父の車で新しいボックス型のバスが増えていました。また彼も複雑な女性関係を持っているようで、みんなの前では明るく振舞っていましたが時折見せる顔が色々忙しそうでした。別の所に子供が出来て パロパロ ナ イカウです。その事を家族もまた知っています。う~ん勉強に成ります。忙しい最中持てなして頂ました。
そして私の為に、ここの家族のお母さんが自分の鶏を提供してくれましてくれました。この家のママはいつもニコニコしていて優しそうな人です。私はこの素朴な雰囲気が好きなんです。これでみんなが困らない位の仕事があって生活できれば楽しいかな?日々の暮らしと子供の教育費、電気、ガス、水道、ガソリン代、食べ物。日々何が起きているか知らない私は安直かな?バーベキューをして飲んでいると、また近所から湧き上がるように集まって宴会が始まりました。親族の長老が来て訳も解らず盛り上がって若い娘を長老が口説いて「長老にまた子供が出来てご盛んなんだよ。」のような事をいっていました。娘の1人は日本人と結婚しているそうです。家の前には日本で見かけるトラックで福山運送のトラックが止まっていました。次は私に娘をくれるそうです。「これで親との挨拶は終わったから結婚しろよ」等と話は次々と盛り上がっていきました。今度はファンキーの奥さんの妹のノルマが現れ子供をつれて馴れ初め話に花が咲き、ママがノルマの彼氏にパンチをしたとか。辺りは暗くなり家の中へと移動。
まだこの時の家には電気がまともに付いていません。
今回ガイドをしてくれたのはファンキーの兄弟マイクです。人は良さそうだけど何か頼りないです。
前回おとづれた時はみんな仕事は有ったのですがみんな仕事を失って私のガイドをしたいと言っていましたが滞在期間が短かったので断りました。
この家の儀兄弟ダンテがワルサーPを買ったから撃ってみろとかいって見せに来るのです。前回来た時は別の銃だったような多分日本に無いから気を引くために持ってくるのだろうけど。だれだれは機関銃持っているとか?横でパンパン撃ってるし興味無いからもう十分です。
ポーズをとれと言う事で。

ゴージャス好きな

つい先ほど友人のフィリーピーナの奥さんから電話が入り今月フィリピンに帰るそうだ。
今彼女はカビーテに二階建て屋上付きのオーダーメイドの家を昨年建てました。写真を見せて貰いましたが中央に螺旋階段がありゴージャス好きな彼女は満足げでした。彼女の話だと屋上にある物置を私に提供してくれるそうである。が昨年の台風でその物置の屋根は吹き飛んだと言ってあわてていました。立てている時から話は聞いていましたが結構豆にフィリピンに連絡を入れて奮闘していました。気を抜くと手抜きをされるからだそうです。
何で連絡をしてきたのかと言えばパソコンのメモリースティックの調子が悪いそうで私が見に行く事になりました。後は彼女の家族に私の受けが良かったようで彼女が帰るときは毎回フィリピンに誘いの声をかけてくれるのです。

2007年3月16日金曜日

フィリピンから帰路

フィリピンから日本に帰るときに日本の友人から言われたのが「フィリピンに興味が有ったらフィリピンパブで友達つくれば良いんだよ」と言われました。
「は~。そうなのか?」私は、当時まだフィリピンパブに行った事がありませんでした。初めて話したフィリピン人は彼の奥さんでした。
「じゃぁ日本に帰ったら行ってみようかな?」元々外国人には興味があったので。

2007年3月10日土曜日

ミンダナオのジェネラスサントス

私の友人の結婚披露の延長でミンダナオに行った時は空港に出迎えてくれました。その足でダバオの市場を軽く見学しジェネラルサントスへ。家族に挨拶をして家に入ると老女がいておばあさんと暮らしているのかと思ったらメイドと紹介されました。嘘だか受けで言っていたのか真面目な話かその老女を処女と言っていた。そのメイドさんに挨拶をしたらすごく照れていました。日本人と会うのが初めてだったのだそうです。私も良く有りますが、話したいけど言葉が出来なくて知っている言葉をやっと口にしたり、そわそわしてしまう。そんな感じが伺えました。以前からフィリピンはメイドの習慣が有り余裕のある過程ではメイドを取るようです。日本にもメイドの仕事としてあれば他の国の様にメイドとして呼び寄せる事が出来るのでしょう。前に司法書士だったと思いますが「メイドで呼ぶことは出来ないの?」と聞いた事が有り「日本に習慣が無いから」と言っていた気がします。このメイドさんはこの年まで結婚していないそうです。
その夜は歓迎会の様な宴会を庭先で片言英語で話をし、バロットを幾つ食えるなどと楽しみました。そのままこの家に何日かステイをする予定です。
家で出されたスープが印象的でした。塩ベースでしたが秋田の鍋に近かったです。ここの家は何件かの家とはちょっと違い(暮らしが良いしトイレに便 座が着いていた)、暑い所のせいか味付けが濃い家が多いが味もちょうど好かったです。ライスも美味しかった。フィリピンは甘い味付けが多く感じられまし た。それも超甘いです。
この家はとうもろこしプラントをやっていました。そのプラントに案内されそこにはユニークなシステムの小屋が有りました。それは木の上に小屋を建て、その下に豚小屋があり、横には小さな川(多分農業用)が流れていました。木陰で涼しく快適でそこで軽くバーベキュウーを楽しみ。残ったものはそこから投げ捨て豚のえさになるブタ小屋もブタ特有の臭いも少なく清潔感がありました。
私は海が好きで白い砂浜の海に行きたいと話したら親戚総出で海に行きバーベキューをしてくれました。海外で「海が好きです」と言うと帰ってくる言葉が「何するんだ?バーベキューか?」と良く言われます。外国の人は海はバーべキュー場なんですかね?泳ぐ習慣が少ないせいか?
良く私が外国の人の応対です。フィリピンだけではなく時間を作ってくれるんですよね。
私が20歳位の頃仕事を休む事は罪悪にも等しい職場がありました。外国の友人を案内したり、したい気持ちがあっても「仕事休めないよなぁ。」と良く思っていた自分がいました。そんな外国の人態度は「何て余裕があるんだ、何で自分には出来ないんだ」何て思っていた頃がありました。

鶏の卵で白身の残るふ化ちょと前のゆで卵

鶏の卵で白身の残るふ化ちょと前のゆで卵。それを「バロット」といって民家で叫んで売っていたり町でお店もある。
肝試しではないが何処の家に行ってもわざわざ買ってきてくれます。
コリコリしたゆで卵で羽毛が無ければ想像しなくてすむのですが..............。
私は小学校に理科の実験で鶏のふ化の授業を受けてから想像(受精してても、してなくても、あの可愛がっているヒヨコの前の卵を食べている)してしまい、しばらく卵を食べれませんでした。卵は食べ物と自己暗示をし想像のストーリーを変えて食べました。

祖父が秋田県の出身だったので幼い頃からキリタンポに似た鍋を良く食べていました。人が集まると決まってでした。鶏を丸々使います。頭を切って逆さに吊るし血を抜き羽をむしりカットしてモツも鍋に入れ入れ醤油ベース塩調整で煮ます。秋田米などご飯を磨り潰して団子状にして用意しておき、食べる少し前に汁を染み込ませる様に入れていきます。無くなったら都度その団子を鍋にを入れます。家庭料理ですから。
ミンダナオの家に行った時、出されたスープが塩ベースで秋田の鍋に近かったです。これにご飯を磨り潰して団子状に入れたら似てるかな。
鳥モツを幼い頃から食べていたので多少(羽毛)の事を除けばバロットは食べられます。バロットの食べ方は塩をつけて食べるいたってシンプルなゆで卵の食べ方です。

鍋で思い出しましたが、日本の家族の様に良く集まるけど、日本は長男の家に集まり兄弟たちに無理をしてでも振舞うけど、フィリピンは断らない限り、お金の有る家に集まるんです。ここが違うかも。

フィリピンには結納に近い事

最近聞いた話で、フィリピンには結納に近い事(地域によるのかもしれない)をするらしい。お金だけなのか物や土地で良いのかは解りません。金額はまちまちなのでしょうが、親が納得いく金額でしょう。
もしも結婚を前提に考えているのならば、結納金と思っても良いのかもしれません。
「日本にもあるのでしょう?」と最近言われました。フィリピン人はそう云うつもりでヘルプと言う言葉に置き換えて言っているのですかねぇ?
大体始めはサリサリ(雑貨屋)お金に余裕があればレストラン(運営方法でピンきりです)、車を買ってタクシー、トライシカル、バス、ジープニーを始めるといったところでしょう。運送屋はあまり聞かないです。
何故サリサリ?何人かのフィリピン女性が言っていたのはサリサリのチェーン化で儲けた人が居るそうです。面識の無い人が同じ事を言っているということはテレビででもやったのでしょう。
身近で便利で個売りをしてくれて安く物がある環境。勝手に口コミで人が来る。後、少ない資金で出来る。でもレンタルルームを借りてやるには赤字だと思った方が良いでしょう。
田舎ででのリスクは人が居てもお金や仕事の無い人が居ることです。この場合に多いのが付けで売ってくれと言う人です。この場合近所好きあいもあるので相手にしない訳にもいか無かったり(後で何されるかわからない)、人が良かったり、消極的な人は潰れてしまいます。付けの客を多く扱っている所は借金が出来て失敗しているようです。無責任なようですが食い逃げ状態ですね。
サリサリでも立地条件が良ければ儲かっている所も有るそうです。
大半が親の援助ですね。親が立地条件などを理解せず、消極的な人は泥沼のようにお金を持っている家族にお金の請求が来ることでしょう。
そう言えばミンダナオに行った時これから結婚すると言う若い男のフィリピン人(フィリピーノ)が婚約相手に「お金をあげた。」「助けている」と言っていたような!?とその時は何でか解りませんでした。私が初めてのフィリピン旅行だったし片言英語だったりで解る単語で言っていたのでしょう。

2007年3月8日木曜日

次はマタブンカイ


今回は三人でトライシカル、バスにタクシー、ジープニーを乗り継いで。
途中持参したライターが切れてしまったのでマッチを買うことにした。サリサリとか何処にでも売っているマッチ。フィリピンのマッチ箱は木で出来ていて周りに宣伝などの紙を巻いてあります。フィリピンのマッチは安くて見向きもされないが私のお気に入りです。そのマッチを見て喜んでいる私の顔を見てフィリピンの友人には変わったものが好きだなと首を傾げられました。

マタブンカイは日本人も結構来ているようで日本語を話せる人もそこそこ居ました。
このあたりのホテルで工事をしている日本人が居るらしい。私が日本人とわかると話しかけて寄ってくるなり売込みを始めます。金額を聞いてみるとこのあたりに来る日本人の気前が良いようで居てくる値段が現地の人が使う金額の三倍くらいの金額を言ってきます。日本語の話せるフィリピン人は気をつけないと。どこの国に行ってもそうですが。
イカダに乗って見ることにした。
イカダに乗ってみると日本語が話せる先導で「日本人はウォニ食べるでしょ?ここに来る日本人はウォニ食べるよ!」「うに」。
一ついただくことにした。日頃から魚介類を食べなれていないせいか私はこの「うに」が美味しいか否かはやはり解らない。
今度は装飾品を出してきた。「ジーザスのクロスのネックレス買わない?」
要りません。




換金する時は


換金する時は大体ショッピングモールへ行きました。結構色んな所にあるんですよね。

2007年3月7日水曜日

醤油TOYU

ある日カランバの家にハッポースチロールのクーラーに魚を入れて売り歩く女性(見た目50歳くらい)が来ました。「私日本に行った事あるよ」といっていました。ニヤニヤしながら私を見て「私日本語少し話せる。」といっていました。「魚全部買って。日本人魚食べるよ。」と言っていました。私がファミリーから見て余りにも小食なので心配して相談したらしい。でも私は魚は余り好きではないので「要らない」と断りました。ファンキーがイカを刺身にして醤油何処からか持ってきて出してくれました。
鮮度はどうあれいただきました。
醤油はこの時私は知りました「日本の醤油が何ておいしいのだろう醤油って味が違うんだ」と思いました。
そうそう醤油の事「とゆ」というので何言っているのか解りませんでした。

2007年3月4日日曜日

プエルト・ガレラ


トイレットペーパーをバッグに入れ夜、鳥かごの乗ったトラックに便乗して港まで向かいフェリーでミンドロに渡り(トラックの荷台で移動していたし何処に向かったかも良く解っていない)鳥かごを農家に届けその足でトライシカルとジープニーを乗り継いでミン ドロのプエルト・ガレラに到着。まずは泊まる場所の確保。予約した場所を探します。泊まった場所の感じは二階建てで日本で言うと駐車場付きのカラオケボッ クス見たいなと造りで色はクリーム色に水色ふち。テラスがあって簡易なテーブルとイス、シャワートイレ付きベットは二段ベット、キッチンはプロパンを借りて料理が出来るよう になっています。そこのホテルから真っ直ぐ歩いて行くとそこは海です。
その日の食材探しにファンキーとアレックスで出かけていきました。
ファンキーはクッキングもうまいです。でもこの時は何を作ってくれたのか覚えていません。良く彼は家でも作っています。食事をした後は海に行きました。
浜辺に行くとホワイトサンド!
ポツリポツリとドリンクバーが浜辺に立ち並びヨーロッパ系の人やアメリカ人(聞き違い出なければ英語ではなかった。フランス?)。現地のガイドを引き連れて歩く人もヨーロッパ系白人が結構見受けました。
東洋人風な人は少なく居たとしても中国人だそうです。現地の人も日本人を知らないから大目の金額を吹っ掛けて来る人も居ません。快適です。マニラでは結構すれ違っていた日本人が居ない。少し海に入り戻ってくるとアレックスとイルマが浜辺の木陰でネイルを受けていました。良く周りを見るとTシャツとか売り歩く女性が何人か浜辺の木陰を利用して歩いています。ふ~ん。
日本人を知らない所に来ると日本語で話しかけて来ないことが怪しく感じなく、雰囲気も良いしとても良いところでした。これも彼らが居てくれたから出来たことです。感謝。
帰りは高速船でバタンガスに行きジープニーを乗り継いでカランバに帰りました。

2007年3月3日土曜日

テラスでコーヒーを

私は居候しているので何か手伝いをしようと言って少し手伝ったのですが気を使って貰っているせいもあり、ほとんどすることもありません。ファンキーとその奥さんは鶏(まだひよこですけど)の世話をパーシバルは車の整備、ダンテは仕事、妹のイルマは夜仕事をしているらしく遅い起床。フィリピンは台風の影響を受けやすく、家畜などは台風で失う事が多いいそうです。簡単に出来る鳥小屋は仕事をする上では入りやすいのでしょう。小屋は高床式でした。
近所(みんな親戚だそうです)のアレックスが私に興味があるらしく良く私に話しかけてきます。見るからにバクラ(おかま)っぽいのですが、みんなから観てもやはりバクラだそうです。彼には妹が居て、妹は日本に働きに行っているといっていました。ヘアサロンも経営しているといっていました。
 結局する事も無く自分のためのヤシの木からヤシの実を落としたり、ファミリーのやっていることを見ているしかなく、いつもの様にテラスでコーヒーを飲み話したいことを辞書で調べていている内にコミニュケーションのとり方(片言英語に地球の歩き方付録の片言タガログと英語辞書そしてジェスチャーと絵)も大体決まってきたし「そう言えばせっかくフィリピン来たんだからどっか行けないかなぁ白い砂浜で海が良いなぁ」なんて思いファンキーに相談したところホワイトサンドは限られているらしいが、ミンドロを薦めてきた。
その理由はアレックスがミンドロに鶏を売っている仕事をしているらしくミンドロに良く行っているという事です。アレックスに案内して貰いながら、鳥の世話は両親にお願いして、泊まるところは日本から持っていったガイドブックからコンドミニアムタイプをチョイスし予約の電話はイルマに確認をして貰い四人でプエルト・ガレラ行くことにしました。

1日に5回食事


朝起きると朝飯が有り「クマイナンタヨ」断る言葉を知らないと永遠と言われてしまう。「たべなさい」 この言葉から抜け出すのが大変でした。「要らない」位の断り方だと心配されてしまうからです。食べることに関しては朝食、中間食、昼食、中間食、夕食で1日に5回食事の時間がありました。これ以上食べられません。食えません。家畜がいるせいか飯の近くのハエにも私は気にかかりちょっと一瞬、目が点になりました。今まで気にしたことが無いのかなぁ?私がハエを気にしているので、その家の母親(ナナイ)が皿にノリのような物(ハエ取り紙のような)を作りハエを取ってくれていました。友人が言っていましたが日本人がフィリピンに来ると3日で下痢になると宣告されていましたが私は1週間は無事に過ごせました。私がお腹をこわした事を伝えるとファミリーは心配してくれて、「下痢の時にはヤシの実(ブクジュース)」がよいと言って毎日ヤシの実と取ってくれて食事のたびにヤシの木から採ってくれました。

会話

直接話しているにもかかわらず、私が何故「らしい」を連呼してしまうのか?それはフィリピンが初めてで日本語を話せるのは友人の奥さんだけだからです。彼女が居ない場所で話をするときは英語の辞書と一人歩きの本の片言の言葉、ジェスチャーから会話をし。ニュアンスとイメージをフルに使い肝心なところは英語の辞書でお互いに言葉を捜しあう。そんな会話だからです。相手も良く付き合ってくれました。

行き成り1週間ステイ

運転してくれたのは友人の奥さんの兄弟でニックネーム=ファンキーこの後、彼と彼の奥さん(イルマ)そしてファミリーには大変お世話に成りました。向こうのファミリーから見れば何の関係も無いファンキーから見て姉の旦那の友人で、イルマの家族からすると何の関係も無いですよね。友人夫婦とは別行動を取りこの家に1人で行き成り1週間ステイしました。それはウェルカムジーザスがウェルカムと言われたような感じです。この家の居間のテーブルの真ん中に有ったような?ウェルカムジーザスはどの家にもありましたね。ファミリーの、また着なさいの言葉にちょっと悪乗りしました。この間、友人夫婦はボラカイへ......。
私は朝起きるとこの家のテラスでコーヒーを飲みながらタバコを吸いボーと人の流れや道を眺めるのが日課です。家の造りの雰囲気が良くてそうしていました。近所の人が物珍しそうに観に来たり話しかけてくれます。テラスには屋根が有りテーブルが有って椅子が二つ、テラスの周りには腰掛けてもテーブル代わりにしても、ちょうど良いくらいのフェンス。
時間が有ると良く話をしてくれるのがイルマの父(パーシバル)が良く相手をしてくれました。田舎は良いが「マニラはデンジャラーだから気をつけないといけないよ」と言われた。まぁこの後ミンダナウに行く時も同じようなことは言っていましたけど、「海賊が出るから危険だから行くのは止めてここに居ろ」と言われてました。確かにそのようだけど友人の親戚がミンダナウに居るし奥さんが見せたいものがあるらしくミンダナウに行くことは決定していましたから、飛行機で行くから海賊は来ないよなどと言って行きましたが良く心配してくれます。確かこの時テレビのニュースで船が襲われた事もやっていました。良く有るそうですパーシバル(タタイ)が言っていました。自分の親族関係以外余り信用しない様です。この家では豚と鶏を家畜として世話をしている家で、鶏が放し飼い状態のが数ひき走り回っているのと、ファンキー(ニックネーム)の面倒見ているひよこ小屋がありました。まだファンキーは始めたばかりらしく小屋が新かった。豚は豚小屋ですよ。周りにはヤシの気がありヤシの実を取ってご馳走してもらいました。ファンキーとは友人の奥さんの兄弟です。ナナイは花が好きで良く花の世話をしています。後家畜の世話。タタイは昔日本に行ってディーゼル車の勉強をしたといっていました。良く日本人にバカヤロウと言われたそうでどういう意味だと聞かれ私は恥ずかしくなり、この下品な言葉の説明をし、日本人を代表して謝っておきました。タタイはエンジニアなのだそうで整備は自分でやるんだといってエンジンを良くいじっています。しかも素手で。ガス溶接もしていましたがゴーグルもせず肉眼でしていました。作業を終えた彼の目からは涙が出てて充血し少し腫れていました。ちょっと痛々しかったです。彼はジープニーを持っていて近所のジュニアスクールの送り迎えをするのが仕事らしい。パーシバルは私に仕事を創ってくれと言っていました。そしてダンテをよろしくと.............。何でこんな事を言っているのだろうか?

少しずつ部品を足して



ジープと言う名のハンドメイドカーがありました。エンジンはトヨタのレビンだとしきりに自慢されました。この車の持ち主の名前はダンテ(友人の奥さんの兄弟のワイフの兄弟)。お金が出来ると少しずつ部品を足しているそうです。この時は日本の会社で確か日本車の内装部品を製造している工場に夜から仕事といって通っていました。この時の給金が日本円で約2万円位だったかな?この車でチョイ買い物の時連れて行ってもらいました。彼はビデオが好きで彼とビデオ屋に行きました。なんか店舗は狭くほとんどがダビングされた物でした。日本に研修しに行くから待っててくれとか、日本の雑誌を取り出しては女の子紹介してくれとか、良く言われました。

マニラの排気ガスはすごかった

この時はジープニーを親族からか借りてきてくれていて、それが私たちの移動手段でした。マニラの排気ガスはすごかった。車の量も有りましたがディーゼル車も多い。日本から中古で来たような車が結構目にします。バスも有りました。暑さにプラス排気ガスでしょ?光化学スモッグとか気にならないのかなぁ?町に居る人もハンカチやタオルを口に当てている人も結構目にします。あわただしく人が行き来していました。急いでいるのかな?車で移動中、交差点で車が詰まる場所があり道路に人が出てきて、そこでは車に乗っている人に対してタバコの一本売りをしている人やお菓子を持って売りに着ます。知らないとちょっと怖いかも。

ガンショップ

マカティとか町に買い物に行くときは必ず、ボディーガードと言って何人か着いて来てくれました。いつも見渡してくれて真剣顔をしていました。初めてだったせいかな?でもショッピングモールやホテルの前にはショットガンを持った警察?ガードマン?が立っていました。ショッピングモールの中でで目に飛び込んできたのがガンショップです。「えっショッピングモールで売ってるの?」ちょっとビックリです。